
遊園地やテーマパークをはじめとする、レジャー施設って今も根強い人気がありますよね。
わたしも、子どものころは大好きでした。
親にねだっては連れていってもらい、ジェットコースターに乗って「きゃーっ」と叫ぶのが楽しくて仕方なかった。
テーマパークのなかを歩くだけでもワクワクして、あちこち見て回るのが嬉しかったのを、今でもはっきり覚えています。
でも、大人になった今では…正直、まったく行きたいと思えないんです。
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観光地のニュースを見るだけでげんなりする
不思議なことに、あんなに大好きだった遊園地や観光地に、今ではほとんど食指が動きません。
むしろ、「〇〇が大混雑!」なんてニュースを見ると、それだけでげんなりしてしまう。
暑い中、長時間並んで、疲れて…
ああ、今の自分にはもう無理だな、としみじみ思います。
もちろん、年齢的にそういった施設についていけなくなったというのもあると思います。
混雑や騒音、移動のストレスに耐えられなくなっているのは、確かにある。
でも、それだけじゃない気がするんです。
他者に「楽しませられること」が楽しくない
わたしが考えるに、どうやら今のわたしは、“他者から楽しまされること”そのものに、少し飽きてしまっているんじゃないかと思うのです。
エンターテイメントって基本的に、「お客さんを楽しませる」ことを目的につくられていますよね。
テーマパークの演出も、映画やドラマの感動シーンも、
「ほら、ここ楽しいでしょ?」
「ここで泣いてくださいね」
と、ある意味とても親切にできている。
でも、楽しさ、嬉しさ、悲しさ、いわゆる感動って、あまりにもわかりやすく提供されるとかえって興ざめしてしまうんですよね。
これはきっと、経験を重ねるなかで“他者に楽しまされること”に、どこか疲れてしまったからなのかもしれません。
楽しまされることからの卒業
とはいえ、こうした「押し付けられるような楽しさ」を感じなくなったからといって、別に不幸なわけではありません。
むしろ、せいせいしている感覚さえあります。
というのも、「ほら、楽しいでしょ!?」「ここは楽しい場所だよ」と言われることがなくなり、自分のペースで、自分なりの楽しみ方ができるようになったからです。
地味で小さな、でも確かな“楽しさ”
他者から与えられたわけではない楽しみって、インスタ映えはしないし、正直かなり地味。
脳からアドレナリンがドバドバ出るようなことも、ほぼありません。
でも、そんな楽しみは、瞬間的ではなく、じんわりと長持ちします。
わたしの場合は、
- 今日も晩酌の第三のビールがおいしく飲めた
- プランターで育てた野菜を食卓に並べられた
そんな、全然写真映えもしない日常。
はたから見ると、「え、そんなんで楽しいの?」と思うようなことだけど、でもたしかに嬉しいし、楽しい。
自分のなかにある“楽しさのもと”を見つける
わたしたちはいつの間にか、「楽しいこと=与えられるもの」だと思い込んでしまっている気がします。
エンタメ業界が発達し、楽しさや感動が“商品”になっていくなかで、「誰かが用意してくれるもの」だけが本物の楽しさのように思ってしまっていたのかもしれません。
でも、本当はちがいますよね。
インターネットもゲームもなかったころのわたし達は、
- 秘密基地をつくったり
- 鬼ごっこのルールを勝手に変えたり
- 地面にチョークで絵を描いてアーティスト気分になったり
誰かに与えられなくても、自分で“楽しさ”を生み出していました。
だからこそ、大人になった今、もう一度「自分の内側にある楽しさのもと」を探してみるのもいいのかもしれません。
遠くへ行かなくてもいい。
お金をかけなくてもいい。
自分の暮らしのなかに、ちゃんと楽しいことはある。
そう思えるようになった今、レジャー施設に行かなくなったことも、そんなに悪くないなと思うのです。
おわりに
エンタメを否定したいわけではありません。
むしろ、現代のエンタメは本当にすごい。よくできてるし、素晴らしいです。
でも、もし「最近、楽しいと思えないな」と感じているなら、それは「感性が鈍った」のではなく、「自分の楽しみ方が変わっただけ」なのかも…。
他者から与えられる楽しさに頼らず、自分で楽しさを見つける。
それこそが、これからのわたし達の「大人の遊び方」なのかもしれません。