
「コスパ」、「タイパ」という言葉はすっかり市民権を得ましたよね。
昔は、「効率よく」とか「合理的に」なんて言葉が一般的でしたが、今はそれよりもコスパ、タイパと言ったほうが話が通じやすいというかピンとくる感じにまでなっていますよね。
でも、そんな我々の生活に浸透しているコスパやタイパという概念。実は怖いんじゃないかと、ふと思うときがあるんです。
今回の記事では、そんなコスパ、タイパについてのわたしのモヤモヤについてお話ししたいと思います。
若者に支持されるコスパ、タイパという概念
「コスパ」は、コストパフォーマンスの略称。支払ったコストに対して得られる価値やメリットの度合いを示す言葉です。
一方の「タイパ」は、タイムパフォーマンスの略称で、投資した時間に対する成果を示す言葉です。
世のなかで広く使われるようになっている言葉ですが、とくにZ世代と呼ばれる若者たちから強い支持されています。
わたしが若かったころは、
「もっと効率よく頑張らないと」
「合理的に考えて!」
なんて、よくオトナから言われたものです。
でも、なんというか、若い人が使うコスパ、タイパって、それとも微妙にニュアンスが違うように感じるんです。
「自分がかけた労力に結果が見合わないならやっても無駄」
「時間をかけても意味がないから、さっさと終わらせたほうが得」
みたいな感じで、損得が自分の行動の判断基準になっている気がするんです。
コスパ、タイパを突きつめると、生きている意味がない
コスパやタイパという概念は、若者たちが世間の空気感を敏感に感じとった結果生み出した概念で、まさに時代を反映しています。
国全体が余裕のないなかで育ってきたので、ある意味、彼らは時代に合わせた正しい判断をしているともいえます。
でもですよ、コスパとかタイパって突き詰めると、
「何をやっても無駄」
「生きていても意味がない」
という極論に行きついてしまうと思うんですよね。
だって、コストに見合うパフォーマンスを出すというのは簡単なことではない。
かけた時間に相当するだけのパフォーマンスを生み出すというのもかなり難しい。
たとえば、人間が生きていくのに欠かせないのが食事ですよね。
コスパやタイパを意識すると、栄養補給さえできればいいという考えになって、サプリメントだけでいいじゃんという考えも生まれてきます。
サプリメントは行き過ぎだとしても、コンビニ弁当を食べながら猛烈に仕事をすればコスパもタイパもバッチリですよね。
たしかに、栄養的にはそれでいいかもしれない。でも…、これって人間らしい暮らしなんでしょうか?
たとえ料理が得意でなかったとしても、一生懸命につくって
「味付け、ちょっと薄かったかな?」
なんて他愛もない話をしながら誰かと一緒に食事をするような、合理的な部分の外に人間らしい暮らしがある気がするんですよね。

歳をとったら、コスパ、タイパから抜け出す
40歳をすぎて思うのは、人生って無駄で成り立っているということ。そして、無駄な部分に人間らしさが宿るということ。
一見すると合理的ではない、無駄こそが人間らしさであり、そこに楽しさがあると思うんです。
若いころはコスパとかタイパを意識したとしても、まだまだエネルギーもあるし、周りの友人や流行の影響を受けていろいろなことに自然と挑戦してしまうものです。
ところが、ある程度の年齢を重ね、エネルギーもだんだんと減って流行への興味も薄れているなかでコスパ、タイパを重視した暮らしをしてしまうと、“古いこと”に固執したただの頭の固い人間になってしまうだけではないでしょうか。
というのも、何かを新しく学んだり、挑戦したりするって、無駄の連続だからです。
時間はかかるし、学ぶのにお金も多少はかかるし、しかも結果がどうなるかもわからない。
自分が使うお金や時間に対するパフォーマンスだけを考えるなら、これまでやってきたことだけを繰り返し、新しいことには手を出さないのが一番です。
たしかに、“これまで通り”というのは快適で、安心で、失敗もないし、無駄もない。でも、成長も発展もないのが“これまで通り”なんです。
昔ながらの方法やモノを大事にする生き方って素敵ですし、そういう暮らしに憧れもあります。とは言え、固執するのはちょっとちがう気がするのです。

まとめ
人生は、そもそも“無駄という余白”の積み重ねで成り立っているのだと思います。
それは決して無意味なことではなく、むしろ「ゆっくりと味わう時間」や「ふと誰かと交わした言葉」のような、合理性では測れないあたたかさや豊かさを生む源です。
コスパやタイパにばかり意識を寄せてしまうと、効率的ではあっても、“人間らしさ”をそぎ落としてしまうことにもなりかねません。
とくに40代になって感じるのは、日々の暮らしにこそ、未知や“ちょっとした無駄”を許す余裕が必要だということ。
これまでの経験に支えられた安心感のある日常から一歩踏み出し、不慣れでも、新しいことに挑戦するその“勇気”の中に、自分らしさや成長の種があるような気がします。
無駄だと叱られそうな時間も、うっかり流してしまうぬくもりも、大切にしたい。
だからこそ、歳を重ねた今だからあえて、コスパやタイパの鎖から自らを解き放ち、心の赴くままに“余白の豊かさ”と向き合っていきたいものです。