
「一人で過ごすなんて、友だちいないの?」
そんなふうに言われたのは、もう昔の話。今や“ソロ活”は時代の最先端。ソロ活をテーマにしたドラマや本が話題になるなど、堂々と「一人を楽しむ」時代がやってきました。
とはいえ、わたしにとってのソロ活はブームになるずっと前から日常そのもの。
基本的には“家族と”以外は全部ソロ活で、子どもの手が離れつつある今、そのソロ活はますます加速中です。
そんなソロ活大好きなわたしが、最近心を揺さぶられた本があります。
それが、宇野常寛さんの著書『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社/「14歳の世渡り術」シリーズ)です。中高生向けに書かれた本ですが、実は大人こそ読むべき一冊だと感じました。
この記事のもくじ
「あそび」を忘れた大人たちへ──ズシンとくる導入
この本の冒頭で宇野さんはこう語ります。
この国のほとんどの大人たちにはひとりで「あそぶ」ときの「あそび」かたを忘れて、ハッキリ言ってつまらない人生を送っている(と、自分でも思ってしまっている)人が多い。
ちょっと刺さりませんか?
たしかに、年齢を重ねるごとに“あそび”は“消費”に、“趣味”は“見せびらかすもの”になりがちで、「ひとりで没頭すること」自体が難しくなっている気がします。
でも、だからこそ大人こそもう一度、純粋な「あそび」の感覚を思い出す必要がある。
そう思わせてくれたのが、この本で紹介されている「ひとりあそびの4つのルール」でした。
【ひとりあそびの4つのルール】
どんなルールかというと、
- 人間以外の「ものごと」にかかわる
- 「違いがわかる」までやる
- 「目的」をもたないでやる
- 人と比べない、見せびらかさない
というものです。
【ルール1】人間以外の「ものごと」にかかわる
「もの」というのは、動植物や石ころのような自然物あるいは服やおもちゃのような人工物のこと。「こと」というのは走ることや食べることなど、つまり、(ここでは自分の)行為のことだ。「他の人のこと」はここではいったん、忘れよう。
この「他の人のこと」は忘れて、モノやコトに意識を向けるというのは、ソロ活において基本のように見えて、案外難しい気がするんです。
たとえば、料理なんかはとても有意義な「ひとりあそび」だと思うのですが、自分の楽しみとしてではなく、人の目線を気にして写真映えするような盛り付けをしだしたら、これは「ひとりあそび」とは言えなくなってしまうかもしれないんですよね。
最初は純粋な「ひとりあそび」だったものも、少しずつ巧くなってくるにつれて、「人に見てほしい」「人から評価されたい」という欲が出てきてしまうのが人間。
人から承認されたい、人と楽しみたいという気持ちを持つことなく、ただ「ひとりあそび」をするというのはオトナにも子どもにも難題だとわたしは思うのですが、どうでしょうか?

【ルール2】「違いがわかる」までやる
これはおもしろいなと思ったら同じことを「違いがわかる」までやってみること。「ひとりあそび」はやればやるほど、「違いがわかる」ようになっていってどんどんおもしろくなっていくからだ。
「違いがわかる」までやるというのは、魅力的なモノやコトに溢れている現代社会で実践できている人ってどれくらいいるんでしょうか?
たとえばゲーム一つとっても、今はスマホ一つで無料で遊べるゲームがたくさんあります。
やり始めはおもしろそうだなと思って取りかかっても、ちょっとゲームの難易度が上がったら、それを乗り越えてまでやり続けなくても、また違う無料ゲームに取りかかることが簡単なんですよね。
わたしが子どもの頃は、「あそぶ」にしてもお金がかかることが多く、一生懸命貯めたお小遣いや、誕生日プレゼントなどでようやく手に入れた「あそび」は貴重なもので、CDにしても、ゲームにしても、本にしても、味わい尽くしたものです。
ところが、翻ってうちの子を見てみると、ちょっとやってみてつまらないゲームは「クソゲー」と称して、簡単にポイッ。次に行けばいいさという感じで、「違いがわかる」までやるという領域に達する前に諦めてしまっているのが現状です。
オトナにしても、サブスクがスタンダードになった今、映画やドラマ、本や漫画にしても、ちょっと見たり読んだりしておもしろくなければ、即スキップというのも普通ではないでしょうか。
楽しいことが簡単に手に入る社会において、「違いがわかる」までやるというのは意思がそれなりに必要な気がしますし、ここを超えたら楽しくなるという線を超えるまでの忍耐力が自分自身でも下がっている気がします。

【ルール3】「目的」をもたないでやる
「~のために」やることは「あそび」じゃない。あくまでそうやって「あそぶ」こと自体を目的にしていないと、そのおもしろさはわからないからだ。
オトナにとって一番ハードルが高いルールは、これなんじゃないでしょうか。
子どもから大人になり、社会経験を積むにつれて、何かの「目的」のためにやることが当たり前になり、何の意味もなくやるというのは時間の無駄と考えがちですよね。
「あそび」なんだから本当は意味なんてなくていいはずなのに、「あそび」にさえも仕事のように効率とか経験値とかを求める社会人マインドを持ち込んでしまう。
たとえば、わたしは子どもの頃から読書が大好き。「ひとりあそび」のひとつとして長年楽しんでいるんですが、ともすれば年間100冊以上は読まないとダメみたいな数に縛られそうになるときがあります。
100冊読んだからといって偉いわけでもないし、たとえ1冊の本しか読まずともその本を味わいつくせばそれで十分価値があるはずなのに、それでも“ 数が多い=価値が高い ”みたいな思考に陥ってしまう。
長年何かのためにやるという習慣が身につきすぎているオトナほど、これを脱却して純粋に「あそぶ」というのが難しく、その能力を取り戻せたとき、真の「あそび」といえるんでしょうね。

【ルール4】人と比べない、見せびらかさない
こういう「あそび」をしていると他の人からどう思われるだろうかとか、一切考えないこと。他の人と比べたり、見せびらかすことが目的になってしまったら、それはもう「ひとりあそび」じゃないし、そのおもしろさもわからなくなってしまう。
これも結構、難しめのルールではないかと正直思いましたね。
ひとりでやっているけれど、周りを意識した時点で「ひとりあそび」じゃないというのはハードルがかなり高くないでしょうか。
たとえば、今書いているこのブログもわたしにとっては「あそび」のつもりだけれど、世間に公開するというのが前提なので、“ 他の人からどう思われるだろうか ”をまったく意識していないというのは噓になる。
こんなにボッチで作業しているにもかかわらず、宇野さん的には「ひとりあそび」じゃないというのだから、判定がキビシイ。
そういえば、厳密にいえば「ひとりあそび」ではないけれど、コロナ禍になる前、Zumbaというダンスを習いに行ってたんですよね。
自分としては楽しんでいたつもりなんですが、ある日先生から「せりちゃんって、Zumbaにハマってないよね」とポロリと言われ、なんだか急に冷めちゃって、それ以来教室に行かなくなってしまいました。
たしかにZumba特有のファッショングッズをみんなと一緒に買ったりもしなかったですし、その教室以外にさらに他の教室まで足を延ばすなんてこともしなかったけれど、勝手に他人と比較され、週1回のその時間を楽しんでいた気持ちまでも否定され、傷ついてしまったんですよね。
“ 人と比べる ”というのは自分だけでなく、他者からも行われるので、大切な「ひとりあそび」を守るためにも見せびらかさないというのは大事かもしれません。

まとめ
『ひとりあそびの教科書』は、中高生向けに書かれた本ですが、大人にとっても、自分の“あそび”を見直すきっかけになる一冊です。
他人の目を気にせず、目的もなく、ただ夢中になって過ごす時間。
そんな「あそび」を人生の中にちゃんと持っているかどうかって、実はすごく大事なことなんじゃないかなと思います。
ソロ活全盛の今だからこそ、ただのブームでは終わらせずに、本当の「ひとりあそび」を深めていきたいものです。