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情報があふれる時代に、それでも旅に出る意味はあるのか

今の時代、旅行に行かなくても、ほとんどのことは知ることができます。


スマホを開けば、どんな場所の景色も、グルメも、体験談もすぐに手に入る。


正直なところ、「わざわざ行く意味ってあるのだろうか」と思ったことがある人も多いのではないでしょうか。


わたし自身は、もともと有名な観光地をいくつも回ったり、効率よく予定を詰め込んだりするタイプではありません。


どちらかというと、あてもなく歩いたり、その場の空気を感じたりするほうが好きです。


それでも、「旅に出る意味は何だろう」と考えることがあります。

心に残ったひとつの言葉

そんなときに出会ったのが、東浩紀氏の著書『弱いつながり』の中の一節です。

身体を一定時間非日常のなかに「拘束」すること。

そして新しい欲望が芽生えるのをゆっくりと待つこと。

これこそが旅の目的であり、別に目的地にある「情報」は何でもいい。



引用:東浩紀『弱いつながり』


この言葉を読んだとき、自分の中の感覚に妙にしっくりくるものがありました。


旅の価値は、何か特別なものを見ることではなく、その場に身を置くこと自体にあるのかもしれない、のだと。

ホーチミンでの出来事

そんなことを考えていたとき、ベトナムのホーチミン市でのある出来事を思い出しました。


道端で、丸ごとのココナッツを割って飲ませてくれるおばさんがいて、せっかくだから買ってみようと思ったのです。


ただ、言葉がまったく通じません。


値段もよくわからないまま、なんとなくお金を出した瞬間でした。


おばさんは、こちらの手からお金をさっと取って、ほとんど間を置かずにお釣りを返してきました。


その流れがあまりに早くて、何が起きたのかよくわかりませんでした。


あとで落ち着いて考えてみると、どうやら1,000円くらい払っていたようです。


現地の感覚からすれば、かなり高い。


いわゆる“ボッタくり”だったのだと思います。

割り切れないけれど、残ったもの

正直、あまり気持ちのいい出来事ではありませんでした。


パートで働いている自分の身にとっては、決して安い金額ではないからです。


ただ、その一方で、「生活するってこういうことなのか」と感じたのも事実でした。


おばさんのした行為が良いことだとは思えません。


それでも、ああいうふうに生きている人が現実にいる。


その事実を、頭ではなく、肌で感じました。


少し生々しくて、きれいに割り切れるものではありません。


でも、だからこそ強く記憶に残っています。

感覚は情報では得られない

こういう体験は、画面の中の情報をいくら眺めていても、たぶん得られないものです。


情報があれば、世界のことはある程度わかった気になれます。


ボッタくりにあった人の情報もネット上にはたくさん転がっています。


でも、実際にその場に行くことでしか動かない感覚があるのも確かです。


旅に出る理由は、何かを“知るため”というよりも、自分の中に小さな変化を起こすためなのかもしれません。

それでも旅に出る理由

それは必ずしも、楽しいことや心地よいことばかりではありません。


ときには、今回のように、少し引っかかるような体験もあります。


でも、そうした簡単には割り切れない感情も含めて、旅の価値なのではないかと思います。


お金も時間もかかるし、効率だけを考えれば、わざわざ行かなくてもいい時代です。


でも、そんな時代だからこそ、旅は必要なのかもしれません。


自分の知らない世間に“触れる”ために、まだ知らない自分に出会うために。

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